2005年10月29日
♪ 「ドコモの 新料金、 どんどん 割引っ」
10年後に基本使用料が何と半額っ・・・
・・・って、ちょっと待って欲しい。
10年ひと昔。
10年後、通信業界がどうなっているかは誰にも予想できない。
10年後に半額と言うのはあくまでも仮定の話と考えたほうがいい。
ナンバー・ポータビリティサービスの実施、そして噂されるソフトバンクの参入などで、「半額」どころではない騒ぎが巻き起こるかもしれないのだ。
●
星新一がブームだそうだ。
「ブランコのむこうで」がヒットして、最近は何と新潮文庫で「新刊」が2冊も出た。やっほう。
ファンとしては嬉しいところだが、「今次のブームでファンになった」と思われるのは辛い。
この微妙な心理。
2005年10月28日
みかんが大好きだ。
死ぬほど好き。
冬は決まって全身真っ黄色になる。
「黄色人種」って呼ばれているくらいだ。
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最近知って驚いたのが、「青みかんには抗アレルギー作用がある」ということ。
というか、「花粉症には青みかん」だそうだ。
本当かは知らないが。
私は花粉症持ちで、最近は1年の半分は花粉症のような状態だ。
・・・とすると、私がみかん好きなのは本能によるものかも知れない。
生存本能。
みかんを見るとつい手が出てしまうのは、「今を生きる」ための術なのだ。
・・・ということでよく「みかん食べすぎ」と怒られるのだが、暖かく見守っていただけると嬉しいな、なんて思う秋の夜長。
2005年10月27日
最近流行の「女性専用車両」なるものに違和感を覚え、ことあるごとにボヤキじみたことを書いてきた。
以前、(いずれは噴出するであろう)疑義を呈してみたことがある。
要約すると、こう書いた。
●憲法上の疑義
基本的なことだが、日本国憲法14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とある。
"公共交通機関"におけるこうした「差別」は、そのまま違憲となる可能性がある。特にそれを「強制」すれば、面倒な裁判になり得る。だから鉄道会社は「お願い」として、つまり男性乗客の「善意」に任せて「女性専用車両」を運用しているような状況である(=法的強制力はない)。
もっとも、男性が無理に女性専用車両に乗ろうとすれば屈強なガードマンによって圧し留められるのが関の山。
●道義上の疑義
全ての男性を「痴漢予備軍」としているのは狂っている・一種の名誉毀損だ、と裁判に訴える人が出てくるかもしれない(よしんば訴えたとしても「訴えの利益なし」と棄却されるのがオチだけだろうけど)。
それから「性別判定」を誰がどのようにするのか、という問題も常につきまとう。
●サービス上の疑義
・同じ運賃を払って、男性に比して女性の乗車機会が多いというのはおかしい
・駅の動線や車両の混雑に変化が出て実に迷惑
・公平性の観点から、本来は「男性専用車両」も作るべき
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どうもすっきりしない。違和感はこんな理由からではない。
ずっとこの「違和感」と取り組んできた。やっとその答え(の一端)が出たので、記念に記しておく。
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こんな言葉がある。
「人を見たら泥棒と思え」
・・・あまり考えたくない言葉だ。私は、日本では少なくともそういう考えで生きてはいないが、女性専用車両をとりまく根本的思想はまさにこれである。
つまり、
「男を見たら痴漢と思え」
こういう、まったくの極論が具現化しているのが女性専用車両だ。そうか、胸のうちにある違和感はこれだったのか。
何かおぞましい脅迫観念から生まれたような、ネオ・フェミニズムというか、奇形化した何らかの危険な思想の香りがプンプンする。
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この調子で行くと、「男性専用車両」「シルバー専用車両」はおろか、「携帯電話専用車両」「地べた座り専用車両」「ヘッドホンの音漏れ専用車両」「居眠り専用車両」・・・・と限りないバリエーションが出てくるに違いない。
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「自分は弱者だ」と言った者が勝ち。一度弱者のレッテルを貼られれば、それを批判するものは自動的に「悪魔」に認定されるのだ。誰も悪者にはなりたくないから、誰もその"弱者"を批判しなくなるし、近寄らなくなる。
その「弱み」に付け込んで、自分を政治的"強者"に仕立て上げるという人はたくさんいる。そういう「弱者」は常に警戒せねばならない。
2005年10月26日
【戯言】
村上ファンドの村上氏は萩本欽一によく似てる。
だから巷ではこういわれているのだ。
「第二の欽ちゃん球団の登場か」−
・・・って、彼が監督になるわけじゃないのだが・・・。
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しかしこの騒動、日本シリーズに少なからず影響していたりして。
とすると彼は実はロッテファン・・?
2005年10月25日
−魔法の言葉「記憶にない」
日本中の政治家が使うマジックワードと言えば「記憶にない」。
都合が悪くなれば記憶喪失を装って、罪や疑惑を観念上「なかったこと」に出来るのだから、この言葉を使い始めた人は天才だ。
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こういうやり取りは尊敬に値する。
「あなたは1億円を受け取りましたか」
「記憶にありません」
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本当にやっていなければ「やっていない」と答えればいいのだ。あるいは「知らない」「聞いたことがない」とか。
そこを、あえて「記憶にない」と言う所がポイントだ。
もし致したコトがバレたときに「やっていない」「知らない」などと答えていると、途端に「嘘つき」呼ばわりされる。二重に罪を重ねてしまうことになるのだ。
だからこそ、「記憶にない」なのだ。
なお念のため書いておくと、本当に「記憶にない」可能性はある。なにしろお忙しい先生方だから。あるいはお年を召した方が多いから(失礼か)。
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そういう政治風土がおキライのはずの田中長野県知事。
彼は長野県知事のはずだが何故か千葉と四街道の合併騒動に口を挟んだり、千葉県知事選挙では森田健作を応援してみたり・・・さらにこの前は「新党」を作ってみたり・・・と今ひとつ何が活動軸なのかよく分からないお方だ。
ということで私は彼の""熱烈な大ファン""なのだが(嘘だが)、こんな気になる記事があった。
田中康夫知事「記憶にない」連発 (報知 9/26)
公共事業の不正入札疑惑を百条委員会で追及され、「記憶が定かではありません」と、旧橋本派の方々ばりの「記憶なし」ぶりを披露されたとか。
虚偽や証言拒否には刑事罰も適用されるというから、「知らない」「聞いたことがない」とは言えないようで・・・??
10/22の河北新報などでは「選挙視野に前哨戦の様相」などといわれているこの一件。知事抵抗勢力が来年の知事選での当選を阻止するというシナリオが解説されている。
「記憶にない」から目が離せない。
追記
Nさんは「全く知らない」と証言しているようです(10/26 朝日)。ということは、本当に知らないのかもしれませんよ。
2005年10月13日
<海に一番近い駅・海芝浦ぶらり旅のススメ>
●脱・日常
ふと、日常の喧騒を離れて海を眺めてみたくなることがある。
そんなとき、お勧めなのが「海に一番近い駅」として有名な「海芝浦駅」の探訪だ。
以下の写真を見て明らかなように、この駅は海に直面している。

▲電車を降りるとホームの真横が海。この構図が面白い。

▲釣りができそうなほど海が近い(実際にしてはいけない)。
▲ホームからは「鶴見つばさ橋」を眺めることが出来る。嗚呼、絶景哉。
なお「ベイブリッジ」ではないので、ここに人を連れてきて薀蓄を語りたい人はボロを出さぬよう注意。

▲通勤電車の中から大型船の航行を眺めるという図。
日常ではなかなか味わえない醍醐味がある。
今回の取材は日中に行ったが、夕刻の海などそれはそれは綺麗なのだそうな。朝日を浴びる海というのも素敵だろう。サンライズ海芝浦。サンセット海芝浦。どちらも一度拝んでみたいものだ。
潮の干満でもこの駅はかなり表情を変えるだろう。満潮と干潮では水位はどのくらい変化するのだろうか。それだけではない。朝ラッシュ時、気だるい昼の午後、休日、荒天の日、そぼふる雨の中、雪の中、カッと晴れた夏の昼間、寒風吹き荒む冬の朝、穏やかな春のあけぼの、涼しさが肌に染み入る秋の夕暮れ・・・季節、時刻や天気によってもこの駅の姿かたちは変わっていきそうだ。夏の夕暮れなど、ムード満点だろうなぁ・・・
色々な時間に、様々なシチュエーションで、何度でも訪れてみたい名駅である。
そういえば海芝浦は「関東の駅百選」にも選ばれていたのだった。納得である。
●どうしても出られない
海芝浦駅は「芝浦」の名の通り、株式会社東芝・京浜事業場の構内にある。
そのため駅の出口が守衛所になっており、一般人は駅から出ることが許されない。
そう。海芝浦は、「海に近い」だけでなく、「出られない駅」としても有名なのである(入場には従業員証・入場許可証が必要。余談だが駅から会社構内へ向けた撮影行為も原則禁止となっている)。
ただ、「出られない駅」とはいえ、「海が見える」というムード満点の珍駅であるから、一般人でもここを訪れる人は多い。折角訪れたのに、ホームで、あるいは電車の中でただじっとしているだけというのも・・・
その事情を慮った「いなせ」な東芝の好意によって、ホームの先に「海芝公園」という小さな公園が作られた(風力発電機つき)。くつろぎのスペースである。こういうのを確かメセナとかフィランソロピーとかいったが、素晴らしい計らいである。

▲海芝公園にはベンチが設けられており一息つける。
ここから眺める東京湾はオツである。飽きない限りいつまでも眺めていられる。
フェンスには海に落ちた人を助ける「救命浮き輪」が備え付けられていた。至れり尽くせり。

▲公園からホームを望む。電車が止まっているのが見えるだろうか。
ホームは片面しかない。
なお、駅構内には水洗トイレや自動販売機(2台)もあるので安心だ。
公園の開門時間は意外と長く、9時から20時半まで。もちろん無料である。
ランチ・スポットとしてもいいかもしれない。
●アクセス方法
さて、ここまで読まれて、一度は海芝浦駅へ行ってみたい、と思った方もいらっしゃるのではないか。というかそう思っていただけると有難い。是非、多くの方に「都会の中の非日常」を味わっていただきたいのだ。
ここで簡単に現地までのアクセス方法を示しておこう。
まず、JR京浜東北線で鶴見駅へ(京急の場合は京急鶴見駅で乗り換え)。
そこから3番線(一部4番線)の「鶴見線(浅野から芝浦支線)・海芝浦行き」で約11分。
そう、たった11分の気軽なトリップなのだ。お勧めする所以である。
日中は概ね1時間間隔で運転しているので、時刻をしっかりと確認してから訪れたい。
・鶴見駅の時刻表(平日) / (土休日)
・海芝浦駅の時刻表(平日) / (土休日)
日中の折り返し時間(海芝浦駅での滞留時間)は平日が25分、土休日が24分。景色に見とれて乗り遅れると海のど真ん中で1時間待ちの憂き目に遭うので要注意。
気になる時間とお金だが、接続がベストの場合、JR利用で
東京からだと約45分450円(乗換えを含まなければ30分ほど)。
横浜からだと約25分210円(乗換えを含まなければ20分ほど)。
・・・と大変お得。JRの「ホリデー・パス」も使えるし、東京や横浜観光の1ルートになってもいいぐらいだ。東京−海芝浦−横浜−桜木町・関内・みなとみらい−中華街 というルートはなかなか新しくてお洒落だと思うが・・。

▲東京から気持ち移動すればこの景色。横浜からだと25分。
ちょっとした旅行気分を味わうのに最適だ。
なお、鶴見線はやや特殊な部分があるので注意ポイントをいくつか。
==
(1)全線無人駅なので、鶴見駅から乗る場合は一度「中間改札」を通る必要がある。「改札の中に改札がある」のではじめはびっくりするが、慌てないように。なお、鶴見から先の切符の清算は鶴見駅で行う必要がある。
(2)海芝浦駅では自動券売機が用意されている。帰りの切符はここで忘れずに購入を。
(3)便利なSuicaも使える。海芝公園の手前に「Suica簡易読み取り機」が設置されているので、出るときと入るときにそれぞれタッチしておく。これを忘れると厄介なことになるので注意。なお、読み取り機付近では監視カメラが目を光らせているので、変なたくらみをしないほうがいい。
(4)鶴見経由以外にも、尻手−浜川崎を結ぶ南武支線経由のルートもある(京急からは八丁畷で乗り換え)。 南武線方面からはこちらが便利(ただし本数が少ないので注意)。 / この場合は、「南武支線」の終点「浜川崎」駅で「鶴見線」の「鶴見方面」に乗り換え、「浅野」駅でさらに「鶴見線・海芝浦方面(芝浦支線)」に乗り換える。 / 注意すべきなのは、「浜川崎で乗り換えるときに、Suicaのタッチをしない」ということ。浜川崎駅は道路を隔てて「南武支線」と「鶴見線」の駅があって、乗換えでどちらの改札も「タッチ」してしまうと乗車扱いとなり、初乗りの130円分を余計に取られてしまう(二重清算)。ここは要注意ポイントだ。
==
●おまけ
(その1)
海芝浦が有名すぎて目立たないが、隣の「新芝浦駅」も海(運河)に面した駅である。
ここもその名の通り東芝の敷地内にある駅だが、ギリギリで公道が駅前に延びているので外部との接続が可能。海が見えたからといって「海芝浦」と間違えないように注意!

▲下りホーム。吹きさらしが哀愁を漂わせている。しかも下は海。
(その2)
新芝浦−海芝浦間の駅と路盤は全て東芝の社有地なので、JRは借地料を支払っているのだとか。話題には事欠かない路線だ。
なお、ガラガラの電車で運転する様を想像していたのだが、意外と乗客は多い。駅が出来るだけのことはあるようだ。車掌も乗っている。
(その3)
海芝浦駅の開業は1940年11月1日。まもなく65歳となる。
(その4)
走っている電車はたったの3両編成。
これはかつて山手線や総武線で長い編成をくねらせ、たくさんの乗客を乗せて走っていた205系通勤電車の改造車なのだ。
かつてとは全く違う場所を走ることになった通勤電車。同じ「通勤電車」でも、10両・11両という超大編成から開放され、都会の喧騒を離れて運河沿いの工業街をひた走るその電車に、そこはかとないロマンを感じるのである。
(その5)
鶴見線には魅力的な駅が多い。
お帰りは鶴見の1つ手前、「国道」駅で途中下車するのはいかがだろうか。手軽に「昭和」にタイムスリップ出来るからだ。ちなみに、駅名の由来は駅前を走る「国道15号線」から。そのまんまである。

▲分かり易すぎる駅名。「国道」など全国にたくさんあるわけで・・・
(開業当時は「鶴見臨港鉄道」。地元の私鉄だったので付近に1本しかない"国道"で充分事足りたというのが真相だ。1943年の戦時買収で「国鉄」になっても駅名はそのまま残って、現在に続く。歴史の皮肉である。なお鶴見臨港鉄道株式会社は現存しており、鶴見駅前「ミナール」など数箇所に不動産を所有している(東亜建設工業の関連会社)。

▲駅前を正真正銘の「国道」が通る「国道」駅。
1930年開業だから今年で75年目。「昭和」の風格が漂う立派な高架駅である。

▲昼間でもシーンとした高架下の通路。どことなく「昭和初期」のイメージが。

▲レトロで味のある改札口。
改札は無人化され、2台の「Suica読み取り機」に取って代わった。時代の流れを象徴する。

▲高架を抜けてすぐの鶴見川の風景。
周辺の散策が終わったら−
国道駅から京急花月園前駅はあっという間である。真っ直ぐ歩けば3分ほど。
横浜へ抜けるときはここから京急で10〜13分190円。
東京方面へ行くときは歩いて鶴見へ。国道や線路沿いなど、または駅周辺に広がった商店街などを眺めて歩けばものの12,3分で到達する。
(その6)
前述の通り、鶴見線は「鶴見臨港鉄道」という私鉄であった。
駅の造りからその「違い」が分かる。

▲JR京浜東北線(国鉄)の鶴見駅(地上ホーム)

▲鶴見線の鶴見駅(高架ホーム)
アーチ型の天井に注目。どことなく雰囲気が異なっていることが分かる。
・・・ちなみにはとが多い。
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また長くなってしまった。どうもダラダラしてしまう。
今後は、たまにこういう「おすすめスポット紹介」も書いていきます。
2005年10月11日
2005年10月09日
日本国内における「国連ネガティブ・キャンペーン」が本格化してきた。
これまで「国連」なるものに無条件の信奉を抱く人が多すぎたので、この組織に関する是非はともかく、国連について「考える」人たちが増えることはとてもいい傾向だと思う。
--
国内で国連批判が強まるのは当たり前である。
外務省の言葉を借りれば、「『発言権は与えないが、カネは出せ』では説明がつかない」のだ。
2005年の国連分担金の分担率を上位から見てみよう。
※●印は常任理事国である。
●アメリカ.....22.0%
日本........19.5%
ドイツ.........8.7%
●イギリス......6.1%
●フランス......6.0%
イタリア......4.9%
カナダ........2.8%
スペイン.....2.5%
●中国........ 2.1%
(中間略)
●ロシア........1.1%
参考(外務省Webサイト)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jp_un/yosan.html
常任理事国のうち、アメリカを除く英仏中露の4カ国の分担率の合計はたったの15.3%である。日本より少ないのだ。
こんな馬鹿な話ってあるのか。日本・ドイツ・イタリアという旧枢軸国が連合国によって弄ばれている事実がよく分かる。
そういえば途上国の場合、分担率に割引が適用されているのだという。その肩代わりをするのは先進国。
例えば「常任理事国」中国の分担率は本来4.8%であるが、この「途上国減免」制度の為にわずか2%程度の負担で済んでいるとか(9/27産経)。そのとばっちりは拒否権すら持てぬ日本が受けているのである。
誰が見ても、フェアな分担とは言えない。
斯様であるから、すでに総理大臣以下政府の見解として、「分担金減額」が1つの方向性となってきた。当然である。それぐらいの「脅し」をするのは外交手段として誠に正しい(私は「国連脱退を仄めかす」くらいやればいいと思っているのだが)。
各種報道を見ると、具体的には5%程度の分担率減額を主張する見込みだと言う。併せて常任理事国である中露の負担増も要求するというという記事も見た。
他国のことには敢えて触れないが、この状況であれば、自らの負担軽減を求めるのは正論である。他国なら、とっくに激怒するか脱退するかしているだろう。
お人よしの国である。つくづく思う。
その優しさはかけがえのない美徳だが、外交の場では足元をすくわれる原因ともなるから悩ましい。
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国連分担金削減論議が国内で進行すると、当然、国外からの批判が出てくる。報道から拾ってみよう。
■国連難民高等弁務官のコメント
「日本は国際社会に対し、極めて重要な貢献を行っている。国連安全保障理事会での地位によって(それが)低下すべきではない」
「(安保理改革)問題が解決されないから日本は(国連)政策を変える、ということがないよう望む。日本は政府開発援助(ODA)の増額も公約している。国連だけを切り離すべきではない」
要するに「カネだけ出して黙ってろ」と言うに等しい。国連難民高等弁務官事務所は国連分担金とは別の任意拠出金によって運営されている。もちろん日本はここにも多額の資金を拠出している。こんな言い方ってないのでは?と思う。
■朝鮮日報の論評(日本語版)
お隣、韓国の新聞。「日本の声を植付ける金銭外交」「恐喝と報復」「金を武器にした脅迫」など手厳しい批判の文言が並ぶ。やはり隣の国の言論、傾聴に値する部分もなしとしない。
ただしまったく私と思考の志向が異なるので反応しようにも難しい。ただ、文末の「日本が国際社会で主導的立場を占めるという言明自体が言語道断だ」という言葉にはしっかりとお言葉を返しておきたい。
我が国の政府は、要するに、「主導的立場を占められないのなら、それを超えたカネは出す義理がない」という当たり前のことを言っているに過ぎないのだ。別に当初から「主導的立場」を狙っていたわけでもなし(←ここが重要)、「主導的立場を担いうる資金拠出をしているのに何の効果もない」ことを憂慮しているのである。何でもかんでも文句を言われると実に困る。
■北朝鮮の見解
「日本が国連安全保障理事会の常任理事国になれなかった場合、分担金削減で報復するということだ」
「こうした日本外交は稚拙と言わざるを得ない」
「日本が過去を清算せず、再侵略の野望を実現しようとしていることを国際社会は憂慮している」
「世界が日本の安保理進出に反対するのは分担金問題のためではなく、その資格がないということだ」
いやあ、<その資格がない>と言ってくれた。そうなのだ、資格がないのなら、払う義務も責任もないのだ。ただそれだけの話だと思うが。
あのアメリカ様にもはっきりと「資格がない」と言われたのだ。資格がないのなら、馬鹿らしいからその地位に甘んじるまでである。
■国連事務総長の発言
「日本は国連に寛大な財政貢献をしてきた」
「日本は過去から現在までの貢献を認められるべきだ」
やはり立場上、相当日本に配慮した発言である。日本の拠出金減額はそのまま国連財政への直撃を意味するからだ。
ただ、いくら口で「日本の貢献」を誉めそやされても日本には何の利もないのである。自己肯定感に飢えた子供でもあるまいし、今更「褒めて伸びる」ものでもないだろう。
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すでにマスコミを通じた世論誘導ははじまっている。
例えば、今週号の週刊新潮を読むと、<「トンデモ外人」に食い物にされた「国連大学」の30年>という実に興味深い記事が載っている。
「国連大学」と聞くと無条件に「いい組織」「世界の国からコンニチハ」「日本にも国連の組織が!素晴らしい」と感じてしまうが、それは幻想で、その実、日本国民の税金を食い物にしているトンデモ組織だ・・という内容の記事であった。
創立30年というからこれまで記事にならなかったことが不思議でならない。こういう記事は大抵、事情通から見れば「何を今更」という内容であることが多い。それが、時代の「流れ」に応じて世に出てくるのだ。
思うに、今回の「常任理事国騒動」で、国連があまりにアレな組織であることを多くの国民がはっきりと認識した。少なくとも政府の中では、もはや国連に「幻想」を抱く人はいなくなったと思う(いたらお目出度い)。
ただでさえ財政難。はっきり言って、今のままではこれ以上国連に税金を拠出しても何のメリットもない。もう、国連との付き合い方を変えた方がいい。
そのためには、「国連信奉」型の世論を、「国連批判」型に変えていかなければならない。政府はそう考えはじめたきらいがある。であるから、国連の実情に関する情報発信が必要となってくる。今後保守系雑誌などを中心に、国連ネガティブキャンペーンが加速することは必然であろう。
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国連について考えることは、戦後政治を決算することでもある。以前も書いたとおり、国連は日本国憲法と相容れない存在である。
憲法9条では、「戦争をしないこと」が謳われている。政府の解釈上は、「集団的自衛権の行使をしないこと」だとされる(解釈によって軍隊や戦争の定義がコロコロ変わるのは相当に危険な状態である。一刻も早く改憲し、「自衛隊」の範囲と「戦争」の範囲を明文化すべきだ。私は「護憲派」の方が余程危なっかしく思えてならない)。
一方、国連憲章43条は「すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き、かつ一又は二以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力(引用者注:国連軍)、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。」とする。要約すると、「国連加盟国は要請に応じ武力を提供する義務がある」ということだ。
また同53条は、武力攻撃を受けた際に、「(安保理が措置を発動するまでの間は)個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」とも定める。
誰がどう読んでも、憲法と国連憲章は矛盾する。
憲法93条では「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と書かれているから、国連憲章をないがしろにするわけにもいかないのである。
国連憲章を厳密に守れば違憲となるし、憲法を守れば国連憲章違反で結局、違憲に近い状態となってしまう。
以前も書いたが、この矛盾はイデオロギー論争時代の「まやかし」の遺物である。早くこの矛盾を捨てなくては。
この矛盾を解決する方法は2つある。
1つが、「国連脱退」。
私は、「連合国クラブ」である国連を懐疑的に見ている。「敵国条項」を残し、かつ多大な財政的貢献をしている旧枢軸国が隅に追いやられている状況はどう考えても理不尽である。
しかし、だからと言って「国連脱退」に進むのは余りにも非現実的だし、非常識的だし、国際社会の非難を招くことは目に見えているし、何より日本が国際的に孤立しかねない。だからこの実現可能性について思いをめぐらすことは労力の無駄であろう。
ただ、日本に「国連脱退」を主張する政党がないのは不思議である。独自軍備主義の保守政党がないことも原因だろうが、何より不思議なのは社民党と共産党である。
この2党、つまり、「憲法9条原理主義者」である彼らが、何故「国連脱退」を主張しないのだろうか。
憲法9条と国連憲章は絶対に相容れない。「国連脱退」を主張せねば、政策が論理的に適合しないのである。その明確な説明を聞いたことは一度もない。
「憲法9条は守るけど国連は入ったまま」という主張は極めて頓珍漢である。誰も何も言わないのが本当に不思議でたまらないが、これはとても大きな問題である。
さて、もう1つの方法が、「憲法改正」である。
国連加盟当時、当時の政府、つまり自民党は、当然に「憲法改正」を視野に入れていた。
昭和30(1955)年、つまり国連加盟の前年に自由民主党はスタートした。同党の政綱には、このように書いてある。
六、独立体制の整備
現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う
もっとも、当時はイデオロギー論争の最盛期。自民党の「党の使命」には、「独裁を企図する共産主義勢力、階級社会主義勢力と徹底的に闘う」と明記されている。隔世の感があるが、結党当初はそういう時代であった。
本来は、国連に加盟する以上は、「軍備」「集団的自衛権」について、徹底的に法的な整備がされて然るべきであった。もっと言えば、改憲すべきだった。
そうでなければ、何度も言うように、国連憲章と憲法との間に法的整合性が取れず、却って危険な状態に陥るからだ。
ただ、せっかく復興と進歩の基調にあった日本が、「憲法」ひとつで国論を二分するような事態になってはまずい。今は「経済成長」へ向けて国民が一丸となって舵を切るべきときだ−
・・・ということで、「国連憲章」と「日本国憲法」は、本質的に相容れないまま、今に至ってしまったのである。自民党も社会党も、この問題には目をつぶったまま、「対立ごっこ」を続けてきた。
「ごっこ」などというと怒られそうだが、彼らはやがて1つの政権を担うことになるので結果として「ごっこ」になってしまったと言っても差し支えないだろう。というかそもそも、社会党は政権を担うだけの候補者を55年体制以降、終ぞ擁立してこなかったという事実は忘れてはならない。
それはともかく、そもそも、世界がイデオロギー論争の渦中にあり、米ソの対立があったからこそ、この矛盾状態が維持されてきたと言える。
要するに、国連憲章43条に規定される「国連軍」なる組織が、米ソの対立の"おかげで"存在し得なかったから、これまでこうして呑気で居られたのだ。
ただ、事態は呑気でなくなっている。
90年代初頭、宮沢政権のPKO協力法でもかなりもめたが、あれは「国連平和維持活動」であるからまだ適法性をこじつけられた。
ただ、「周辺事態法」の辺りから事態は変わってきた。「イラク特措法」からはもはや看過できない事態になった。
もはや憲法の許容範囲を超えて、自衛隊が運用されているのだ。これは危険すぎる。
何度も書くが、「解釈」で言葉遊びをするのはそれこそ危険なのだ。国際情勢が穏やかでない現在、一刻も早く憲法を改正し、「自衛隊」の範囲を明確に定めるべきなのだ。
政権をとる気のない政党が、「ケンポー」「ヘーワ」と唱えて、却って国民を平和でない状況に置こうとしているのは、腑に落ちないところである。国民を騙すのもいい加減にしろと言いたい。
相手が武器を持っている以上、最低限度の武力を保持しなければ太刀打ちできない。免疫機能は自分の体だって持っている。侵攻には排出で対抗せねばならぬ。でなければ死ぬ。だから「非軍備」は究極の理想であるが現実的にはナンセンスであり、まさか最近のテロやハイテク戦争、中国や北朝鮮の軍事国家ぶりを目の当たりにして「非軍備」を唱えるお目出度い政党はあるまい。
もし、「非軍備」のつもりで「ケンポー」「ヘーワ」と唱えているのであればもう相手にしない。そんな絵空事で国民を騙しているのだとしたら激しく怒るしかない。ただ、まさかそんなことはないだろうから、彼らは多分軍備の必然性を容認しつつ(公に言うと往年のファンを怒らせるのでおとなしく)、その上で「ケンポー」「ヘーワ」と唱えているのだろう。
とはいえ、「ケンポー」「ヘーワ」と唱えることが逆にそうでない状態を作り出していることは注目すべきポイントである。
むしろ、護憲派が「ケンポー」「ケンポー」と叫ぶほど、彼らの嫌うところの「再軍備派」は勢いづくのだ。
自衛隊については、裁判所は「統治行為論」を使って憲法判断を避けるのが慣例であるから(あるいは「訴えの利益なし」とするかもしれぬ)、事実上、その制限に歯止めが存在しないのと同じである。すでに「自衛」のはずがイラクへの派兵すら実現している。一昔前では考えられない状況だ。
要するに、「解釈」次第でどうとでもなるということだ。特に政府が強ければ強いほど、勝手気ままな解釈と運用が可能となる。
この危険性は言うを俟たない。
特に今回の選挙によって圧倒的権力を持った政府・自民党は、解釈次第で何でもできる状態になった。特に政治の季節の終焉を迎えた今、再軍備派にとっては願ってもチャンスの来迎である。
そんな今になってまだ「9条を守れ」と「本気で」言っているのなら、それは「平和勢力」ではなく、むしろ間接的な「軍備助長勢力」になってしまう。これが却って危険な状態を生み出していることは本当に注意しなければならない。
現状では、改憲によって自衛隊の範囲を明確にすることが必要なのである。
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そこへ、民主党が登場する。
この政党は護憲派と改憲派が混在するよく実態の掴めぬ政党であったが、前原新代表によって「改憲」を主張する方向に固まったようだ。
同党憲法調査会のまとめた「憲法提言」の安全保障分野の原案は、報道によると、
(1)平和主義
(2)国連憲章の「制約された自衛権」
(3)国連の集団安全保障活動への参加
(4)「民主的統制」(シビリアンコントロール)
の4原則を示している。
まず国連憲章を意識している点を、私は強く評価する。「野党第一党」として、このことを明確に打ち出している点は素晴らしい。かつての「反対のための野党」とは一線を画している印象だ。
各論を見てみると、(1)と(4)は現憲法の理念の踏襲と言う感じで特に論ずるべきところはない。
注目に値するのは(2)と(3)である。
(2)では、国連憲章に基づき、集団安保措置が取られるまで、「緊急避難的に武力行使が出来る」と定めている。朝日の報道ではこのことを"「専守防衛」に徹するとしている"と書かれているからやや不安ではある(「専守」がどこまで国民の生命財産を守るかは分からない。核の時代である今、一度攻撃されたら一環の終わりであり、「攻撃も防御」という思想も時には必要だからだ。もっとも、その「危険性」だけで相手を攻撃するというのも危なすぎる。その線引きは難しい)。むしろ「専守防衛」という旧い思想にこだわらず、「侵略はしない」という限定的かつ穏健的、常識的な定義をすればいいと思うのだが。いずれにせよ、野党が「武力行使」にまで踏み込んだ案を提示すること自体、画期的なことである。この点は手放しで評価できる。
(3)については、国防を超えた武力行使を想定している。その判断は「日本が主体的に判断する」としている。さらに国連決議などに基づかない活動は「国民の意志として参加しないことを明確にする」との文言もみられた。こちらも野党としては画期的な立案である。
自民党と民主党は、こと「改憲」に関しては政策理念的に合う部分が多い。こういう「話せる
野党」の登場は歓迎すべき状況だ。今後、国民的論議が大幅に進展することが期待される。
もっとも、民主党内の護憲派は前原体制を懐疑的に見ているだろう。ただそれが、折角進展した憲法論議の先送りに繋がっては元も子もない。新代表のリーダーシップに期待がもたれるところだ。
しかし以前の話を混ぜっ返すようだが「郵政民営化」に関しては民主党の案がどうも「反対案」ではあっても「対案」とは思えない。政策策定にムラがあるところがかなり不安ではある。「外国人参政権」などの危なっかしい政策を持っているのも注視項目だ。
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(余談)
民主党は、自民党寄りと非自民党の格差が激しすぎる。積極的改憲論者と超護憲派も混在している。もしかすると数年後、憲法を軸とした大規模な政界再編が起こるかもしれない。
考えうるパターンとしては、自民・民主自民系の合同がある(自民は次回選挙で今回ほどの票は取れないため)。
そして民主から出た人(非自民系)が社民とくっつき、公明もこちらに・・という動きがあるかもしれない。かつての新進党+96年時の民主党・社民党に近い政党である。
要するに、「自民党対非自民党」という政界地図(二大政党制)が完成する。もっとも、共産党は大同団結しそうにないから完全二大政党とまではいかないが・・・。
国民にとっては、「自民と非自民」という構図が最も判りやすい。分かりやすければいいというものではないが、「勝ち馬に乗る」のも「判官びいき」も大好きな国民である、自民と非自民とで戦いあう構図が一番性に合っているのではないか。
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何度も言うように、政策実現こそ政党の存在意義であるから、政権をとるつもりのない政党は国会から消えるべだ。
大同団結をしたほうがよい政策を通せると信ずるのであれば、くっつくことはまったく「悪」ではない。むしろ、政策と無関係に、つまり票のために団結するのは最悪だ。そうならないことを祈る。
与党にも野党にも、「選挙協力」ではなく、「政策協力」を目的として大同団結をする意思と覚悟があればいいのだが。
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まとめ
来年は、日本の国連加盟50年である。
国連と憲法の問題は切っても切り離せない。これが何とかならない限り、戦後政治は真に決算されないのだ。
2005年10月06日
どうして「臭いものに蓋」をするのか。
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首都圏の中央線に新型車両が導入されるという。
中央線といえば「優先席」の前身、「シルバーシート」発祥の路線であるが、新型車両の「優先席」のイメージ図を見てとても驚いた。

(JR東日本のプレスリリースより引用)
・・・これはもう、「やりすぎ」である。
ここまで来たか、との思いを深くする。
優先席は、そもそも「シルバーシート」としてスタートした(今でもこの呼称を使う事業者は多い)。1973年の登場であるから、もう32年が経っている。社会的には「定着」したといえるだろう。今更文句を言う人間もそう居まい。
しかしどうしても、この「優先席」に纏わりつく思想が気になる。これって、本当に「いいもの」なのだろうか。図のように過剰に区分けされるべきものなのだろうか。鉄道という公共空間に、こんな「精神的結界」があることが許されるのだろうか。
敢えてそんな問いを発したい。
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日中の電車の中では、優先席はガラガラでも一般席が埋まってしまい、立たざるを得ない乗客を多く見掛ける。本当に意味のないことだと思う。
優先席はそもそも「譲るべき場合に譲る」席なのだが、このスペースには始終、座ってはいけないような雰囲気が漂っている。もはや一種の結界である。
誰もが「関わらないほうが賢明だ」と考える。思考が停止する。心にシャッターが降りる。
・・・かくして、周辺には気まずい空気だけが残っていく。
本来は優先席の有無に関係なく、立っているのが辛い人には「どの席も譲るべき」なのだ。何が面白くて、図のように「ここが優先席ですよ〜」とアピールするのか。そして、どこまで圧倒的大多数の、サイレントな一般乗客の精神に結界を作れば気が済むのか。
そもそもおかしいのは、「ノーマライゼーション」を声高らかに謳っておきながら、その実、優先席の利用対象者を交通事業者が「区分け」している現実である。
健常者とそうでない人とを平気な顔で区切る。極端な座席の塗り分けで、徹底的に人間を"選別"する。それを「いいこと」だと信じ込む。本当に恐ろしい。どこがノーマライゼーションか。
この「塗り分け優先席」を見て、本当にぞっとしてしまった。株主対策だかステークホルダーの為「ぶりたい」のだか何だか知らないが、これは偽善ではないか。
図のような優先席の過度の区分けは、「こういう取り組みをしたんだよ」というアピールに過ぎない。アピールとはつまり自己宣伝である。「弱者」を使って自社の"先進性"を演出しているのだ。偽善としか考えられない。
もちろん、「偽善で何が悪い / それが長期的に見て利益に繋がると判断したんだ / 文句あるか」と言われればそれまでの話。その点に関しては何も言わないが、私が言いたいのはそういう「思想」が嫌いということである。
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これも偽善的だが、「全ての座席が優先席」というのが本来の発想である。優先席対象者を、交通事業者が勝手に「囲い込み」するのはどう考えてもおかしい。
・・そういう意味で先進的な取り組みをしているのが阪急電鉄・能勢電鉄である。1999年から「優先席」を撤廃し、事実上、全座席を「優先席化」した。
これに触発され、2003年12月には横浜市営地下鉄も「全席優先席化」を実施している。
これが本来あるべき姿ではないか。高く評価されて然るべきだろう。
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もっとも、優先席は「席を譲るべき」という認識を乗客に刷り込ませるだけの充分な心理的効果があることは確かだ。
しかしもう導入から32年、社会的な認知はすっかり深まった。これからは、「全席優先席」の時代=「優先席撤廃」の時代ではないか。
「囲い込み」のままでは、隔絶が深まるばかりである。「優先席」に纏わりつくあの気まずい空気は精神衛生上もよくない。誰もが優先席を「なかったこと」として考える風潮は反吐が出るほど恐ろしい。
・・・"先進的"な優先席。これがこれからのスタンダードになるのだろうか。