2004年10月30日
バリアフリー推進で駅のエスカレーターが増えてから、帰りのホームが混むようになった。
時間にして従来比、毎日1〜2分のロスをしている。1年間(270日くらい)使うとすると、約540分のロス。
9時間だ。毎年1日分の労働時間が、エスカレーターに費やされている計算になる。
40年で、40日分。つまり、生涯で考えると1人当たり1ヶ月に相当する時間が「エスカレーター待ち」に使われるかもしれないのだ。
エスカレーターってのは歩くように出来ていないんだから、階段を潰してエスカレーターを増やすのであれば、階段も増やさないといけない。あるいは台数を増やすとか。とにかく、今は多くの駅で乗客を処理し切れていない。缶詰列車からやっと降りたら今度は行列ですか。
このサイトのソースは、基本的に何に使ってもご自由に、ということにしている(下らないものばかりだし、そもそもいちいち確認する時間がないので)。
もちろん、トラブルが起こると面倒なので「僕が作ったものだけ」という条件はつけているけれど。
だが、僕が引用した資料が載せられて「提供:鬱色時代」と書いてあったり、画像をそのまま直リンクされていたりとビックリすることが往々にしてある。いちいち気にしないが、ちょっと見通しが甘かったか。
どなたにも「提供(=差し出すこと)」した覚えはないんだけどなぁ・・
最近気になって仕方ないのが、「ごみ」の表記について。
以前は「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」という表記だったが、
最近は
「燃やせるゴミ」と「燃やせないゴミ」という何だかよく分からない表記も増えている。
「燃える」「燃えない」という区別は、一目瞭然、直感的で大変分かりやすい。
かつては、各人が焚き火程度の火を想像し、「燃える」「燃えない」を判別すればよかった。
しかしやがて「どんなものも最終的には燃える」という至極当たり前の見解が登場した。
そこで頭を回した誰かが、「燃やせるゴミ」「燃やせないゴミ」という表記を考え付いたようだ。
だが、「燃やせる」「燃やせない」という表記は、両義的でちょっと分かりにくい。
「許可(〜してよい)」の意味で取れば分かりやすい。「紙は燃やしていい」「発泡スチロールは燃やしてはいけない」と(常識的に)判断して捨てられる。だが、「可能(〜できる)」の意味にもとれる。これでは、「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」と本質的に意味は変わらない。
意味としては恐らく後者であろう。これでは無意味なのだ。もっとも、仮に前者であったとしても「紙などはリサイクルをせずに燃やしてしまっていいのか」など、屁理屈を捏ねることは可能だ。
そもそも、スピーディーな判断が必要となるゴミ箱の名称については、こんな両義性を持った表記では判断のミスを増やすばかりである。美しい表現ともいえない。
そこで僕は提案するのだが、
「燃やすゴミ」「燃やさないゴミ」と書いてみてはいかがだろうか。
これならば、「燃やす」「燃やさない」を簡単に判別できる。
「燃やせる」「燃やせない」よりはマシだと確信する。
思想とか歴史とかそういうのに全く関係なく、
僕は君が代も日の丸も好きだ。
あれほど日本「っぽい」ものはないと思う。
これ以上単純化できないほどの優れた意匠。シンプル・イズ・ベストだ。
「細石の巌となりて」なんて、未来永劫の国家ロマンをかきたてるじゃないか。
国旗は国旗、国歌は国歌、これらは国の象徴であって、賛成・反対の議論の余地はないはずだ。
それを、「敢えて」問題化して愉しむのは、何故だろう。
2004年10月24日
地震、非常に心配です。
ずっと停電というのがまずあり得ないのですが、明るくなってからより被害が鮮明になってしまうのかと思うと、思わず顔を覆いたくなります。
台風、地震と立て続けに起こる天災、無力というか、何も出来ない自分が実にもどかしい。
2004年10月23日
このページは誰も読んでいないと思ったら、色々と反論疑問質問のメールなどを頂きまして心の底からビックリしています。
特に最近、「プロフィールって読む人いるの?」と書いたら、予想外の反響を頂きました。
「サイトに興味を持ったときに読みます」というものが多く、大変参考になりました。よく考えると、僕もそうでした。
一方、「全く読まないです。賛成」とかいうのはございませんで、プロフィールというのは実は読まれているんだなぁと考えを改めた次第です。
「言論の自由」というのは絶対的に嘘で、実際には個人の語る言葉は徹底的に奪われている。
以前、地裁の傍聴をしたときに、こんな裁判があった。
トラック運転手が自家用車に無理な追越しをされ、腹が立って自家用車の運転手を追跡、車を停車させ、自家用車の運転手を車から引きずり出し、暴行を加えた・・・
というもの。
被告人は、傷害罪に問われていた。前科もあるようだ。
こういう怒りっぽい人はどこにでもいる。というか、すぐ暴力に訴える人というのはごまんといる。決してこの行為を擁護するわけではないが、「追い越されて腹が立つ」というのはごく自然な感情だ。
腹を立てるまではいいのだが、「暴力に訴える」―これは、平時においては、絶対にやってはいけない行為として−厳しく制限されているところである。「腹を立てても暴力を振るわない」―これは社会のマナーである。
裁判官は、これを淡々と被告に指摘すべきだった。
しかし裁判官は、そういうことには一言も触れず、驚くべき言葉を発した。
「被害者の人というのは、いわゆる暴走族みたいなもんじゃないんでしょ?車も普通の車でしょ?」
・・・僕は悲しくなった。そんなことじゃないのだ。
この裁判官の論理はこうだ。「何の罪もない一般の市民を傷つけたのは悪い」−これでは、これ以上の議論が発展する余地は皆無だ。
これは一種の思考停止で、これを言われたら何の反論も出来ない。裁判というのは「弁論」の場であり、たとえ相手が裁判官であろうとも、主張したいことは徹底的に主張すべきなのだ。それが予め防がれてしまっている。
確かに「何の罪もない一般の市民を傷つけたのは悪い」。だが、それは自明のことであって、わざわざ裁判官が指摘するまでもないことだ。つまり、「人を傷つけてはいけないよ」といっているのと同じ、「生き物を大切に」といっているのと同じ、「駆け込み乗車はお止めください」と言っているのと同じ、実効性の薄い言葉なのだ。この裁判で問題なのは「腹が立って人を殴った」ということなのだから、裁判官は「腹が立っても人を殴るな」ということを指摘すればよかった。「一般市民を傷つけてはいけない」という絶対正義を持ち出すのはおかしい。絶対正義を持ち出すことで、予防線を張って、それ以上の反論若しくは余計な「言葉」を全て奪ってしまっている。
被告は、時々「確かに追い越されたんだけど・・・」と不満そうに漏らしていた。恐らくこの被告は、「殴った」という行為よりも、「追い越されて腹が立った」という動機に関心を示しており、「追い越した相手も悪い」という論理展開をしたかったに違いない(論点を取り違えているが、それを被告人に分からせ、自分が「何故」罰せられているかを理解させるのは重要。そしてそれは、もはや弁論によってのみ明らかとなる)。よって幾度か「確かに追い越されたんだ・・・」と言葉を発していたわけだが、その度に弁護人がたしなめていた。弁護人も、「腹が立つのは分かるけど、人を殴ったら罰せられるんだ」くらいのことを言うべきだった。そうでなければ多分被告は「自分の言葉を少しも聞いてくれなかった」という被害感情だけを残すことになる。
非常に悲しいのは、被告が「確かに(腹の立つ)追い越しをされた」という「真実の」言葉を、ついに話させてもらえなかった環境である。「何の罪もない一般市民を傷つけた」という断罪の下、被告人が語尾まで語ることのできた言葉は「被害者に謝罪し、二度と繰り返さないようにしたい」という弁護士から「教わった」言葉のみであった。少しも「自分の言葉で」語っていない。
「追い越されて腹が立った」のは事実であろう。そして、その「追い越し」が、(その人の)腹を立たせるほど無理のあるものだったことは恐らく否めない。被告はこの事実をとにかく裁判官に理解してもらいたかった(ここでの理解とは、「事情を汲む」というよりは「話を聞いてもらう」に近い)に違いない。しかし裁判官は、「聞く耳を持たない」。弁護人も、恐らく同じである。
聞く耳を持ってもらえない(「無視される」)ことほど、人を傷つけることはない。常に「無視される」人々は、確実に存在する。
一番悪いのは暴力を振るった被告であることは間違いなく、暴力というのは振るったほうの負け、被害者も相当な怪我を負ったようで、酌量の余地は(恐らく)全くないけれども、被告人は自分の言葉で「動機」すら語らせてもらっていなかった。これだけは実に不愉快な出来事であった。
「追い越されて腹が立つという心情は理解できるが・・それを暴力に訴えるのは野蛮以外の何物でもなく、厳しく断罪されるものなんだ」くらいの言葉を裁判官は述べるべきだった。そうしない限り、「自分の言葉」で語れなかった被告は、結果的に「懲りず(「どうして罰せられたか」を確実に理解することがないので)」、同じことを繰り返しかねない。
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これほど極端な例ではないけれども、「聞く耳を持たれない」ケースというのはごまんと存在する。全ての人間が本質的には自己中心性向にある(そうでなければ生きていけない?)という前提に立てば、他人の言葉は容易に無視されるものだ。これは、常に覚悟しておくべき事項だ。
というか、忙しくていちいち人の言葉に付き合ってられないという人が殆どのはずだ。全ての人の言葉に等価に(あるいは、水準上で)対応することの出来る人間など、いはしない。必ず「優先順位」があって、一部では「無視」しなければならないものも出てこよう。
そこで考えなければならないのは、「いかに聞く耳を持ってもらうか」である。その工夫の過程こそが、その人の言葉をより豊かなものにしていく。
2004年10月17日
●選挙前になると増えるもの
昔の友人
(電話で、「ねぇ、今度の選挙行く?」→「いやなんで?」→「==党の○○さんって人なんだけどさぁ、いい人でさぁ、応援してくんない?」と続く。)
●特に親しくもない「昔の先輩」についていくとハマる罠
健康食品
(喫茶店で会うことになり、会話が途切れると「ところでさぁ」→「はい。」→「今俺、サイドビジネスで健康食品の通販してるんだけどさぁ」→「はい。」→「怪しくないよ。絶対安全なんだ。しっかり儲かるし。」と続く。)
●ちょっと間違ってる
(よく知らない外国のサッカー選手の名前を持ち出して)
酒席で、「あー、○○に抱かれたいぃ」と絶叫(する女)。
男としてこういうのを聞くのはたまらなくムカつく。「じゃぁお前外人になっちまえよボケ」って思う。
●自分はあと100年も生きていないくせに
「年金制度は100年安心です」「100年安心プランです」
●ホントは言って欲しいくせしてウザい
(よくありがち)
「3人から告白されたんだって?」→「・・お前、言うなっていっただろ!」
なら初めから言うな。
●それ、チューハイ
(電車の中で高校生が得意げに語っていたので物凄く笑ってしまった)
「酒なんて、誰でも飲めるよ。ジュースみたいじゃん。」
●誰も見てない
・電車の中で携帯メールを打ってるとき
・黒板消すとき
・人前で話すとき
・開いてたチャックを直すとき
・プロフィール(w
※質問:人のプロフィールって、読みますか。どうなんですか?以前、僕が書いた「プロフィール」のページを消したら「元に戻して」というメールが・・メール・・・・え?読みますか?スタンダードが分からないです・・
●「話すと長くなるんだけど・・・」
じゃあ言わなくていいよ。
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高校まで、学校がつまらなくてしょうがなかった。とにかくイベントが大嫌い。はっきり言って、授業中(と休み時間)が一番楽しかった。なお、教師の話はまともに聞いていた方だと思うが、教師には嫌われていたと思う(別に構わないが)。
教師の言葉の中で一番「嘘っぽい」と昔から思っていたのが「ありのまま・思うままを書け」という一言。
植物の観察日記は「ありのまま」で言いと思うが(厳密には着眼点が違うといい点をくれないのだけれども)、テストや作文というのは、基本的に「ありのまま」では点が取れない。
「教師が求めるもの」を答える必要があるのだ。作文などは、特にそう。読書感想文なんて、その典型である。
本を読んで「つまらなかった」と正直に書いても、点はもらえない。そんなことはどんな子供でも気づくのだ。だから、無理矢理「おもしろかった」「感動した」「○○の部分に共感した」とか適当に茶を濁す(一応「教師に喜ばれるように」書く)。
しかし、それでは及第点スレスレなのだ。読書感想文は、「○○という事実について、自分はこう思った。そして、こう考えた」という部分が重要なのである。これこそ、教師(というか全ての人)が求めるものである。
つまり、「主人公の並外れた活躍に、僕は感動した。」では60点いくか行かないか、である。
「主人公の並外れた活躍に僕は感動した。昨今、『命の大切さ』がますます叫ばれている。主人公の行動は、これと通じるところを感じる。僕も、この主人公のように、どんな命も大切にして生きていきたい。」と書けばよいのだ。なお、「教師に喜ばれるように」書くのがポイントだ。決して、「主人公の並外れた活躍に僕は感動した。だが、そこには強い胡散臭さも感じた。いまどき、こんな主人公は流行らないのではないか。これこそ平和ボケというものだ。『どんな命も大切に』は理想論としては大いに結構だが、殺人鬼と誰もに好かれる好青年の命の価値は果たして等価なのか。どんな命も大切に、と説くのであれば要人だけでなく全国民に護衛を付けろ。この本もそうだが、誰も彼も言ってることとやってることが違うのではないか。」などと書けば、おそらくパアだ。後者が真実なのだけれども。
ちなみに、僕は小学生の時分に読書感想文で賞をいただいたことがある。今にして思えば、このからくりを暗に「知っていた」ことになる。中学生くらいになったら、既にこの意識は認識の下にあった。学校にムカついていたので、卒業文集には当たり障りのない、「誰も文句が付けられないような」作文を書いた覚えがある。
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イベント(「行事」)も大嫌いだった。イベントが特に嫌い(相変わらず好きではない)でなくなったのは、つい最近のことである。
ただ、「温度差」で言えば摂氏20度くらい。50度くらいに熱っぽい人には(今でも)醒めてしまうが、5度くらいに冷え切った人にはよくムカついていた。「少しはちゃんとやれよ」あるいは「来るな」って。やる気がないならやらないほうが万人の為によいのだ。辞めたい奴は勝手に辞めればよし。その分、他の人に負荷が掛かってしまう場合もあるが(そういう場合が殆どだが)、その組織に二度と戻らない覚悟があるなら辞めればよい。行事の後ひょっこりと「戻ってきました。また入れてね。」というのは虫が良すぎるのでそういうのが許されると思っていたら一度冷や水を浴びてくるといい。
そういう覚悟のない小市民は、あきらめて行事に参加するわけである。僕もそうであった。学校は「集団生活を学ぶ場だ」という嘘がまかり通っているが、集団生活は学校で学ぶというよりは、部活とかバイトとかじゃないかしら。学校の行事で学べることは、「気乗りしないことでもやり通すこと」「気乗りしないことをやらねばならないこともあるので、あきらめること」つまり、「忍耐とあきらめ」ではないか。合唱コンクールも遠足も文化祭も厭で厭でたまらなかった。友達やらが実行委員や指揮者や伴奏をやっているのを見ると申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、どうしても「厭」な気持ちは抜けなかった。しかしこれはどうしようもない。厭で厭でたまらないものでも、「やらねばならないことは(厭でも)やらねばならないのだ」。これこそ、学校の行事が教えてくれたものである。今にして思えば、この経験は決してマイナスではなかった。嫌でもやらねばならぬことなど、死ぬほどたくさんある。「嫌だから」と(プールの授業を毎回ズル休みする人みたいに)拒否し続けていれば、恐らく遠からずどこかから脱落していただろう。
・・・というのは結果論で、
僕は「行事は大嫌いだけど、やるからにはちゃんとやる」という、「よいこ」になっていた気がする。仮面生徒だ。嫌な奴だ。だが、そういう人間ってのは多いはずだと確信する。そういう「よいこ」になっていると、本気でイベントを運営している人には申し訳がなく、いまでも頭がしめつけられる思いだ。だが、「嫌だ」という思いは消せないのでどうしようもない。摂氏50度くらいのアツい人は、「行事が嫌だった」と言うと「嫌ならやらなければいい」と言って「嫌だ」を跳ね除けている。これで5度くらいの「やる気ゼロ」の人たちは脱落する。残りの20度くらいの「やる気はあるんだけどいまひとつ・・」「やる気はないけどやるしかない・・」という人たちにとってはこの50度−5度の戦いを見ているのが辛い。そして、50度の人に「ついていけない」のも辛いのだ。煩悶する。
こういうのがいたるところにあって、本当に辛い。これはどのような場所にでも存在する。「無気力派」「やる気充実(一部空転)派」そして「中間派」・・・何とかならないものでしょうか・・
2004年10月16日
Google関連でまた楽しいモノが出てきました。
ついにGoogle Desktop Search が登場、さっそくレビューをしているウェブログもちらほら。
他人に使わせると(ヤバいファイルが検索できて)「危険」ということみたいなので、使うのが物凄く楽しみです。
英語版を導入しようか、日本語版が出るまで待つかちょっと迷ってます。
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Yahooがウェブログを導入しないワケ
大流行しているウェブログ。旧来の「ホームページ」を更新しつつ、「遠足新報」「鬱色News Clip」だののウェブログも更新している身から言えば、同じ「個人のWebサイト」であっても、「ホームページ」と「ウェブログ」とでは天と地ほどの違いがある。
旧来の「ホームページ(※この言い方が正しいとは思っていない。便宜上の記述だ。)」は、とにかくアクセスが伸びにくい。一方、ウェブログは検索サイトと相性がよく、またコメントやトラックバックなどでリンク数を稼げるし、ちょっとしたことがきっかけで恒常的なアクセスを保つことが可能となる。
「アクセス」という面から考えてみると、もはや「ホームページ」よりも「ウェブログ」が優位である。
もっと言えば、アクセスアップだけを狙うのであれば、レンタルウェブログがいいと思う。以前なら相手にもされなかったようなよくある「日記」であっても、「レンタルウェブログ」であると、「何もしなくても」いずれその会員からのアクセスを見込める。積極的なコメント・トラックバックでますますアクセス数を稼げる。
日記を書きたいけど日記だけではアクセスを見込める自信のない人は、「ニュース収集」といくつかの面白い写真(著作物をバンバン・バンバン、湯水のごとくキャプチャーすればより完璧なんじゃないかな!!)を含んだ日記を書けば、勝手にアクセス数が増えると思う。英語が出来る人は、海外サイトの翻訳ニュースサイトを作ればもっと完璧だ。アクセス数は増える。
詳細は敢えて書かないが、これはすでにかなり(自分で・または他者が)実証していることである。とあるウェブログ・サービスを借りて実験サイトを開設したところ(誰にも知らせていない)、初日ですでに「コメント」をもらったのだ。「ホームページ」であったら考えられないレスポンスの早さ。キーワードごとにリンクがつく「はてな」だったら、もっと広まるのが早いんじゃないか。
検索サイトに拾ってもらい、相互リンクをしてもらわないとアクセスを稼げない「ホームページ」と比べ、ウェブログの優位性は高い。
僕は、Yahooに是非、Weblogサービスを開始して欲しいと考えている。日本一のポータルのWeblogである。ある程度の内容のコンテンツをそろえれば、相当のアクセスが見込めるんじゃないか。実験をしてみたいのである。 / というのは嘘で、単純に、YahooのWeblogサービスというのを見てみたいのである。
そんなとき、こんな記事を見つけた。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0410/14/news060.html
詳細は省くが、気になったのはYahooの喜多埜取締役の言葉。
ブログやソーシャルネットワーキングサービス(SNS)参入についても検討中だという。「ブログやSNSは一時的な流行かもしれないとも考えており、慎重に検討して参入するかどうか決めたい」
「一時的な流行」になるかどうかは知らないが、導入に慎重になっている様子が伺える。この気持ちは(僕なんかが理解しても意味がないが)よく分かる。
はっきり言って僕もまだ、Weblogには懐疑的である。「コメント」「トラックバック」といった機能にも実は興味がなかったりする(←ならWeblog使うな)。
さっきの「アクセス効果」の件でも触れたが、基本的に「以前ならアクセスのなかったはずのサイトが何もしなくてもアクセスされるようになった」というのが問題なのである。
そういうサイトは、昔ならば検索サイトに引っかからなかった。よって、サイト運営者は、「少しでも検索サイトに引っかかるように、少しでもリンクを貼ってもらおう。そのために、少しでもいいコンテンツを作るぞ!」と必死になって考えた(かもしれない)。
だがWeblogの場合、「トラックバック」を打てば、そのサイトに結果的にリンクが貼られたことになり、どんなサイトであっても「無条件で」検索サイトに引っかかるようになった。
これは、Web検索の信頼性を落とすことにも繋がりかねない。Weblogでアクセスアップを目指す第一歩、それは「たくさんトラックバックを打てば検索サイトに引っかかる率も高くなる」ということだ。これは誰にでも出来る手軽な「検索サイト対策」で、これさえ覚えれば従来の「アクセスアップのノウハウ」は壊滅する。
同じ内容のことを書いたWebサイトでも、「ホームページ」だと1日10アクセス、「Weblog」だと1日500アクセスといった不平等状況がすでに生まれている気がする。
ということは、500アクセスの「ホームページ」は、Weblogで記述するだけでその何倍ものアクセスを稼げている可能性があるのだ。これでは「ホームページ」は衰退してしまう。
つまり、Weblogには、良質の「ホームページ」を駆逐してしまう効果があるように思えてならない。また、いたずらなトラフィック増加を招いているような気もする。
最近、「ホームページ」を見ると「Weblogで書けばもっとアクセス数が多いはずなんだけどなぁ。」と思うことがしばしばあったので、我慢できずについ書いてしまった。
案外、こういうシステム(Weblogによるアクセスバブル・システム)は簡単に崩壊するかもしれない。
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そもそも広告がないウェブログ・サービスが多い中、無料で負荷の高いWeblogスペースを提供することは採算的に合わないかもしれない。うーん・・
まぁ、たぶんそのうちに「Yahoo!ブログ」とかいうのが登場すると思いますが・・
2004年10月15日
夜更かしする時間が増えた(朝5時とか)
メールボックスを開くのが怖い
道端でコケたりすると、すぐ「ネタになる」とか思う。
常に何かネタを考えている。
・・・とか、きっと誰にでもある現象だと思います。
あらゆることのあら捜しをするようになった
どこかしら攻撃的になった
すぐ反応が来ないとキれそうになる
キーボードに触れていないと不安だ
「パソコンが使える」といっても実はHTMLが書けるだけだったり
HTMLすら書けなかったりして。
2004年10月14日
大昔に書いたコンテンツ、「駅の時刻表の変遷」。
1年ぶりに読み直してみると結構面白かったので、体裁を整えて再度書き直してみようと思います。
出来れば収録駅を増やして大掛かりなコンテンツにしたいのだけど・・
とりあえず、資料の揃っている「都賀駅」から手をつけようかな。
ものを書く、というのは同時に敵を作る、ということだ。
どこまでも同じ人間はいないわけで、何かを表現するとき、その表現を見た者は、「自分と違うモノ」を見つけて不安になる。不安は人を臆病にする。普通はそれで終わるが、批判精神の強い人あるいは批判が趣味の人にとってはその自己の内面に湧き上がった不安を打ち消すために攻撃的になる。これが敵だ。敵の発生だ。
誰かの本に書いてあってなるほどと思ったが、「10人のうち3人は自分の著作を懐疑的ななまなざしで見ている」のだ。でもこれは仕方がない。表現をすれば敵は出来てしまう。気にしないほかない。
そもそも人に対して何かをする、というのは一種の暴力だ。特に表現というのは自分の伝えたいことを誰かに「受け容れてもらう」ことだ。自分でない固体に自分の一部(表現)を受け容れさせるというのは暴力だ。一種の制圧行為だ。誰かを制圧する力というのは、経験的に明らかに、性的な衝動に通ずる。実に根源的で原始的で暴力的な衝動だ。性的衝動の発露には相当のエネルギーが必要だ。そしてこのエネルギーが表現活動において最も重要となる。なお、表現されたものを「受け容れる」のも一種の自己表現行為である。これにもエネルギーを要する。
直感だが、これ(エネルギー)には種類があって、ある種のエネルギーとある種のエネルギーとは相克するものだと思う。
僕の持っているエネルギーに反発するエネルギーを持った人間はすなわち敵だ。そして、僕の持っているエネルギーに受容性を持つエネルギーを持った人間はすなわち「味方」だ。
サイトを訪問してくださる人のうち、大半は「好意的エネルギー」を発散してくださるが、しかし僕は思う、絶対に「敵意エネルギー」を持ってこのサイトを見てくださっている方がいると。敵意があるのにサイトを見てくださっている方が少なからずいることは間違いない、と。
おおっぴらに言えば、ある程度Web閲覧に慣れてくると、「好きなサイト」「嫌いなサイト」というのが出てくると思う。「好きなサイト」はともかく、「嫌いなサイト」というのはさらに細分化される。
●「肌は合わないけど毎日見てしまうサイト」
●「肌が合わないから見ないサイト」
後者は、もともと縁がないのだろうから「無視」してよいが、
厄介なのは「肌は合わないけど毎日見てしまう」サイトのほうである。
このサイトも(どのサイトもそうだと思うが)、「ホントは嫌いだけど毎日見てしまう」という読者さんがいらっしゃるはずなのだ。正直に言えば、僕にもそういうサイトがある(・・なんて書いていいのか)。
そして思うのだが、「敵」がいないサイトというのは純白で淡白で、何と言うか、「小便臭い」感じがする。そしてそれは、見れば何となく分かるし、本質的に魅力がない。
サイト運営も長くなり、1日のアクセス数が安定的に増えたとき、僕はサイトを「当たり障りのない路線」に転換することを決意した。1日1000や3000のアクセスがあるのに、敵を作るようなことを書いて損をしてはつまらないからだ。「エロ・グロ・ナンセンス」などもってのほかだと思っていた。
つまり、「万人向け」を目指すほかないと思ったのだ。
だが、よくよく考えてみると、それは単なる欺瞞であり、偽善であり、虚飾であり、「読者」をバカにした行為であることに気づいた。「万人向け」など土台無理だ。世の中には予想もつかないことを考えている人々が無限にいる。何が基準で、何がスタンダードなのか、さっぱりわからない。
「万人向けに書いています」という美辞麗句は、結局、「自分が万人向けと思っていること」を書いているに過ぎないのだ。つまり、自分を中心に据えた貧弱な思想でしかない。
・・・そしてこれが重要なのだが、「万人向け」を標榜する場合、その「万人」を思い切り低く見ている可能性が高いということだ。
大嫌いなテレビ局がある。「大衆向け」の嘘を嫌でも分からせてくれるテレビ局だ。この局の生み出すテレビ番組は、愚劣で、アホで、レベルが低く、見ていて反吐を吐きそうになるほどだ。テレビは決して嫌いではないが、僕はこのテレビ局だけは好きになれない。「万人」のレベルは恐らくこれよりははるかに高いはずだ。
すこし話がそれたが、「万人向け」というのはいくら頑張っても土台無理だ。幼児には幼児の、学生には学生の、社会人には社会人の、老人には老人の、それぞれの世界観がある。男女でも違う。
これまで意図的にセックス・アングラ関連の記述を避けてきたが、人間が為す表現においてセックスは不可欠のものだろうし、「裏の世界」というのも絶対に必要である。いい顔ばかりしている奴ほど怪しいのだ。あまりにも自分の中の「万人向け」という基準にこだわって、本来の表現が出来なくなっているかもしれない。これはちょっとおかしい傾向だ。
・・ということで、今、少しずつサイトの路線転換を進めている。
まずは「広告」の設置から。皆が見るサイトに、個人ごときで広告設置なんてご法度と思っていた節があったが、これは間違いだった。自分の書いた文章から多少のマージンを貰うことにいちいち疑問を感じているのはおかしい。もう少し厚顔でいなければ。
で、「エロ」「グロ」「ナンセンス」なのだが、無理して入れる必要はないと思う。いたずらに「エッチ」とか何とか書くのは単なる趣味の悪いエロオヤジだ。ただ、あまりそれを意識して意図的に健全に作ろう(繕う)とするのはもうやめたい。
とにかく、
批判されてもいいから、「書きたいものを、書けるだけ書く」
ことが、重要なのだと思う。
つまり、「敵を作る」ことを恐れないこと。
むしろ、敵が出てくるくらいが丁度いいこと、そんなことを考えた。
このところ、千葉市の記録映像を見るのにハマっている。
そこで、不思議なことに気づいた。
・昭和38年 人口30万人 千葉駅の乗降客数(/日) 約20万人
・昭和47年 人口50万人強 千葉駅の乗降客数 約30万人
・昭和60年 人口78万人 千葉駅の乗降客数 約20万人
・平成16年 人口91万人 千葉駅の乗降客数 約20万人
(※平成16年を除き、すべて記録映像のナレーションより)
約半世紀、千葉駅の利用客数がほぼ均衡している。
人口は爆発的に増えたのに、駅の利用者はそれほど増えていない。
モータライゼーション影響も考えられようが、これはちょっと面白い数字だ。
2004年10月12日
毎日更新なんてできない。できるわけない。
忙しかったり体調が悪かったり色々するわけで。
だから毎日更新するサイトってのはホントすごい。
絶対にバカにしちゃいけないと思う。
更新が遅れても、「今日の更新は?」とか催促するのは絶対ダメだ。
もう、毎日更新していることだけで奇跡的だ。
2004年10月11日
誰にも受け容れられなそうなのでここにひっそりと書くわけですが。
「タバコは身体に悪い」というのは盛んに宣伝されているけれども、そしてそれは多分本当なんだろうけども、はっきり言ってタバコは敵にされ過ぎている。
本当に敵にしたいのであれば売らなければいいんだが、そうしたら税収が絶たれて困ってしまうのは政府なのである。矛盾しすぎている。
そもそも欧米でタバコが槍玉に挙げられているのは、はっきり言って熱心な市民運動家の目を工場や自動車から出る「大気汚染」からそらす目的があるというのはよく知られた事実だ。そしてそれはうまくいっている。
日本でも同じような理由がありそうだが、他に、タバコを悪徳商品と位置づけることで、税金を上げやすくしているというのもあるかもしれない。
タバコを吸っていても長生きする人はいるし、吸わなくても早死にする人はいる。性格、食べ物、生活習慣・・・様々な要素が複雑に結びついて、健康状態は決まる。本当にタバコは危険なのか。タバコだけが危険なのか。ちょっとやそっとのデータでは信用してはいけないと思う。
はっきり言ってトチ狂ってると思うのが、「路上喫煙禁止条例」である。
いや、別にこの条例そのものは狂ってはいない。為政者の政策策定能力の高さを見せ付けられ、僕は唸っている。うーん・・
問題なのは、路上喫煙禁止条例の持つ思想だ。これは明らかに狂ってる。
何故、「路上喫煙」だけが問題になるのか。
路上では、もっともっと罰金を取るべき対象がたくさんあるのではないか。
歩きタバコなんかより、違法なストリート演奏の方が邪魔だって人、いないのか。
歩きタバコなんかより、道幅いっぱいにあるく高校生の方が邪魔だって人、いないのか。
歩きタバコなんかより、歩道を暴走する自転車の方が邪魔じゃないのか。
本屋の中で聞きたくもない歌手の曲が流れる方が邪魔だ。(それさえなければ僕は店内喫煙でもいいくらいだ。)
電車の中も同じだ。
喫煙より、ヘッドホンのシャカシャカ音の方が数億倍迷惑である。
何か、そういう迷惑のはけぐちをタバコにだけに求めていないか。
「路上喫煙禁止区域」とかいう看板がどれだけ路上の景観を壊しているか、考えてみたことはないのか。そっちの方が僕にとっては気になる。気になって、ノイローゼになりそうだ。
きれいな街並みに「路上喫煙禁止」の文字。醜くないのか。
何か、タバコをいじめすぎているような気がする。
そういう僕は非喫煙者。
最近、Webメールの容量が急増していて好ましい傾向だ。Webサイトの容量も急増している。
Geocitiesも、一時代前の激少容量を抜け出し、やっとこさ50MBだの300MBという世界になった。いい傾向だ。
最近、ある大手サイトが容量不足のGeocitiesを見限って出て行った。「人がいなくなる」―こういうところから衰退は始まるのだ。もう少し危機感を持ったほうがいい。
移転した途端、Geocitiesの容量増加。タイミング悪いなー。
危機感といえば、iswebベーシック。CGIの激重地獄。ある大手ニュースサイトはCGIのあまりの重さにサイトを移転してしまった。金を払っているのにCGIが重いというのは狂ってるもんな。「人がいなくなる」―こういうところから衰退は始まるのだ。
だがやはり金を払っているだけあって、緊急メンテナンス。CGIは激的に速くなった。嬉しい。
コンビニでレンタサイクル。
観光地ではやっているとことがあるみたいだが、都会でもやってみたらどうか。
夜、雨が降りそうなので仕方なく徒歩で駅まで。
帰り、雨が振っていないので駅の近くのコンビニからレンタサイクル。近くのコンビニで乗り捨て。
同じチェーンであれば乗り捨て自由だ。
集中出店区域であればこのサービスは大いに実効性があると思う。
ビジネス街。官公庁街。ちょっとした移動にレンタサイクル。1時間100円。保険込みで300円とか。
昼休みに健康のためサイクリングしてもよし。流行るんじゃないか。
盗まれないように、電子キーみたいなのをくっつけて一定時間クルマが帰ってこなかったら車輪をロックするシステムなどどうか。
とか、書いてみることで、アイデアは膨らむ。と思う。
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健康素材100円ショップ。健康グッズや天然食品のみを取り扱う100円ショップ。とかくこういう素材は高い。一人暮らしの人が買いやすい少量設計。ちょっとだけでいいから天然食品を試してみたい、という人にも最適。売れやすい商品の試験にも使えるかも。
こういう「ワンコイン」というのは他にも色々考えられそうだ。
100円レンタルビデオ、オール100円で昔のビデオが借りられる。ビデオに新作映画の紹介CMを大量封入すればいいかも。
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コンビニ貸し本
コンビニ自動洗髪
2004年10月09日
時々、人間から「理性」を奪ったらどうなるかと考えてみる。
そこかしこでとんでもないことになっていそうだけど、
その「とんでもない」という意味が、理性を失ったら無意味になってしまうので、
そこはすでにとんでもなくない世界になっているはずだ。
価値とは相対的なものに過ぎないから、今人前で素っ裸になる行為が恥ずかしくても、
それが恥ずかしくないという世の中になれば別段どうということもなかろう。
では、それを「恥ずかしい」としているものは何か。
というか、何故恥ずかしいのか。何が?
人と違うからか。
ならば、全員が服を脱いでいる社会であれば、服を着ているほうが恥ずかしいということになるのか。
・・みたいなことを試してみたくてしょうがない。
台風、千葉市付近に上陸との報。
ますます風雨が強くなるのかと覚悟していたら、急速に風が弱まり、雨もやむ。
静寂。
空を見上げると、雲がない。
これが台風の目というやつか。
東京湾から来たと思われる、潮のにおいが辺りに充満している。
しばらくすれば吹き戻しの風が強烈に吹くだろう。
いま、ここに、台風。
通勤・通学という行為は異常だ。
モデル・パターンとして「2時間かけて通い、8時間働き、2時間かけて帰宅」というのを考えてみる。
働く時間の半分が、そこへ向かうために費やされているというこの異常さ。
エネルギーが違う方向に向けられているような気がしてならない。
何かが、ちょっと狂ってると思う。
でも、誰にも止められない。
・・を読む人なんているのか、と昔の僕は常々思っていたわけです。
有名人の日記やプロフィールならとも書く、なんでもない人の日記やプロフィールって読む人いるのかって。
それが実は人の日記って(他人の生活や思考を覗き見る感じで)面白いし、プロフィールも(他人のプライバシーを暴くような背徳感があって)わくわくするのです。
もちろん、面白い日記というのは「人に読ませる」ことを前提とした日記−良くも悪くもネタ日記−であり、小学校だかで書かされた「あのね帳」みたいに「見たまんま感じたまんま」の日記はダメだ。そういうのはローカルで紙の上で楽しむべきものである。殆どがそういう日記だけれど。
とにかく、「日記」を読むのは結構楽しい。
ただ、自分が日記を書くかというと絶対に書けない。プロフィールも書けない。
人様に見せるようなものではないからだ。
せいぜい、
「朝起きた。歯を磨いたら血が出た。」
「トイレに行った。ちょっとゆるい便が出た。昨日は飲みすぎたようだ。」
「電車の中で向かいの人と目が合って気まずかった。」
ぐらいしか書けない。毎日何らかのネタがある人間なんていない。
というかやっぱり人の生活なんて誰も興味ないと思うのだが。なのになんで日記サイトは人気があるのか。やっぱり興味があるのか。やっぱり書き方によるんだろうな。
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「読んでもらえる日記の書き方」
「我が家のペットが発情期を迎えたみたいです。毎日毎日吼えて困ります。だから夜も眠れなくて・・」と書いても誰も読まないだろうが、
「あー、そろそろ幻覚を見るかもしれない。酷い寝不足。その原因は、ウチで飼ってる犬(シェパード)のゴンタさん。彼は今、発情期。毎日毎日物欲しそうに吼えて吼えて・・。」
と書いた方が同じことを書いていても読んでくれる率が高くなると思う。
よく見るが、次のようなのは読んでくれる率はかなり低い。少なくとも僕は、二度と読まない。
「明日は定期テスト。深夜2時まで勉強しました・・(涙」
テストってのは、「嫌だ」「逃れたい」という共通事項が万人にはっきりと定着しているし、夜遅くまで勉強するというのも多くの人が経験済みの事項なので、共感は得られても、「そんなの誰にでもあることだよ。」と片付けられやすい。つまり「つまらない」。こういうネタを書くときは、脚色をつけるべきだ。食いつきをよくするために、「エロ・グロ・ナンセンス」を加えるのだ。
エロ
「勉強をしているときって、無性にムラムラする。隣の席のK子ちゃんのことばっかり頭に浮かんでくるぜ。さわりたい。ぱふぱふしたい、ちょめちょめ・・いんぐりもんぐり・・・・・って、そんな妄想している間にもう2時じゃねぇか。もう寝ないと。でも2ページしか進んでねー。ってか明日がテスト。もう終った・・」
グロ
「鉛筆でノートとかグチャグチャにしてぇ。隣の席のM子ちゃん部屋に連れ込んで一緒に勉強するふりしていろんなことしてぇ。あー、我慢できねぇ。分かんねぇ。分かんねぇ。何でここの答えが2になるんだ。もうかれこれ2時間も考えてるというのに。誰かに相談しようにももう深夜2時。テスト前日だというのに。終った・・。」
ナンセンス
「お花畑。ちょうちょ。天使。小川。雲。青空。遠くの山がきれいだ。森も見えるよ。あ、りすさんだ。そんな世界に、僕はいる。テストの前日。深夜2時。テスト範囲を間違えた。あと30ページも残ってる。青い空。きれいだなぁ・・。」
これぐらい脚色をつけると、読んでくれる率はグッと高まる。と思う。
あと、面白い日記サイトは基本的に「顔文字」を多用しない。(汗)(爆)などの括弧文字も効果的に使っており、決して安売りしない。そういう傾向にあると思う。
以上、ここに挙げた例は、日記の書けない人が勝手に考えた例ですので、あまり参考にはならないと思います。
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Webサイトを運営している、なんて人様に話せることではない。自分からはあまり話したくない。
話してみたところで、軽蔑のまなざしを受け、「どーせ日記みたいなモンだろ?」と受け取られるに決まっているからだ。日記なんか書けないってのに。
2004年10月05日
インターネット上で球団名公募。
そんなことをすれば荒らされて当然だが、そこは企業のしたたかさ。「話題づくり」の一環だろう。
「球団名公募するも荒らされて公開中止」という記事でも出れば、再注目&世間様の同情を集められる。ホント、うまいと思った。
以下、すでに公開中止となったランキング一覧。
(※各所で取り上げられているものを掲載。クリックで拡大。)
これはかなり面白い。いい意味でも悪い意味でも面白い。
僕としては「富樫今週も休載かよorz」(「冨樫」になっていないところがポイント)、「細木数子『あなたは今、球団を持つべきではないわね。』」、「ホリえもん ふる太と鉄人兵団」。「浦和レッズ」がクリーンヒット。
2004年10月03日
いつもあら捜しばっかりやってるツケが。
突っ込んだ箇所が大間違い、突っ込みようのないネタだったことが発覚。
トップページのネタの全面差し替えという緊急事態に。
30分〜1時間で済む更新に2時間3時間掛かってしまった。
時間の無駄。ここにそんなことを書いていることが一番無駄。
2004年10月02日
2004年10月01日
とか何とかいう年金制度が今日、改正された。
「100年安心」とほざいた人たちは100年後の結果を知ることはないし、
そもそも今日から100年も生きている人がどれだけいるかも不明だ。
要するに、「100年安心」なんてのは無責任極まりなく、つまり単なる放言であり妄言であり、虚言であり、これほど人を馬鹿にした言葉はないと思う。
そもそも「100年前」を想起すればそれは1904年という明治時代であり、このころはソ連もないのであり、大日本帝国が大東亜戦争で米軍と戦って敗戦して米国に国土を荒廃させられそこから復興し・・・というプロセスを誰一人として予見できていない時代である。
つまり100年先というのは誰にも分からないわけであり、それを「100年安心」とか抜かすのは人をバカにしすぎであり、腹が立って腹が立ってしかたがない。
のです。


